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2022.05.12ブログ〜今月お薦めの1枚 ジャズボーカル編

今月お薦めの1枚: ジャズ・ヴォーカル編~ニーナ・シモン『エマージェンシー・ワード(Emergcy Ward) 』

今月お薦めの1枚~ジャズ・ヴォーカル編は、1950年代から2000年代初頭に至るまでの約半世紀の間、ジャズを中心にしながら、ブルース、R&B、ゴスペルまで他ジャンルにも及ぶ活動を展開し、ダイナミックで且つ情熱的唱法で人気を博し、90枚近いアルバムを制作・発表したニーナ・シモンが、1972年39歳の時に制作、発表したライブ録音アルバム『エマージェンシー・ワード(Emergency Ward) 』を選びご紹介したいと思います。

ニーナ・シモンは1933年2月にノースカロライナ州トレントンに生まれました。余り裕福ではない家庭でしたが、音楽に理解の有る両親から4歳の頃よりピアノを学ぶ環境を与えられ、直ぐに音楽的才能の高さを発揮し、家人だけでなく、近隣や周囲の人達もその彼女の才能を伸ばす手助けをしていた様です。

やがて地元の教会で演奏する様になり、12歳の頃にはクラシック曲を演奏するピアノコンサートを既に行っていた様です。  その後は、彼女に継続的な音楽教育を受けさせるために地元に基金が設立されました。そしてこの奨学金の助けを借りて、彼女はノースカロライナ州アッシュビルのアレン高校に通うことができました。

その高校でも目覚ましい音楽の才能を発揮したニーナ・シモンは、高校卒業後の1950年の夏にニューヨークのジュリアード音楽院でレッスンを受けながら、フィラデルフィアの名門カーティス音楽院入学のオーディションの準備をしていました。しかし彼女の入学申請は却下されました。その年、72人の応募者のうち3人だけが受け入れられましたが、アフリカ系アメリカ人の彼女は人種的偏見のために彼女の申請が拒否されたのではないかと疑いました。

この事は後にニーナ・シモンが、音楽活動だけではなく、人種差別反対の活動に参加していく契機になったと言われています。

その後、フィラデルフィアに残った彼女は、最初は写真家のアシスタントとして生計を立てていましたが、やがて当時著名なポップ・ボーカルグループのメンバーで有ったアーリーン・スミスのニューヨークに有るボーカルスタジオで伴奏者としての仕事を見つけました。

しかし依然、クラシックピアノのレッスンを受け続けたいと思っていたニーナ・シモンは、そのレッスン料の資金を得るために、ニュージャージー州アトランティックシティのレストラン・バーでのピアノ演奏の仕事を始める様になります。 このバーでのピアノ演奏の仕事上、彼女は芸名が必要になったので、ここで初めて「ニーナ・シモン」と言う名前を採用しました。

彼女の母親は、このバーで演奏することになるジャズやブルース等のクラシック音楽以外の音楽を「悪魔の音楽」として嫌い演奏することを承認しないことを知っていたので、彼女はこの新しい芸名を使用して出来るだけ母親にこの仕事をしていることを分からない様にしていたようです。そしてこのバーでの彼女のクラシック・ピアノの長年の経験に裏付けられた確実な演奏力によるジャズやブルース等のピアノ演奏は多くの固定ファンを惹きつけていた様です。

プライベートでは、1958年に見本市会場関連の仕事をしていたドン・ロスと言う人物と親しくなり結婚しましたが、余り幸せな結婚生活とは言い難かった様で、直ぐに破綻します。

しかし音楽活動の方は徐々にですが軌道に乗り始め、結婚した同じ年に小さなクラブで演奏した後に、ジョージ・ガーシュウィン作曲の名曲「I Loves You、Porgy」(ポーギーとベス)を録音しました。これは尊敬するビリー・ホリデイのアルバムから歌唱を学び、ジャズを愛好していた知人への好意として演奏したものですが、このレコードは予想以上に人気を博し、アメリカでのニーナ・シモンの唯一のビルボードトップ20入りと言う成功とまでなり、この成功をきっかけに、1959年2月には当時の有力レーベルの一つのベツレヘムレコードと契約することができ、ニーナ・シモンは同レーベルから、デビューアルバム「LittleGirlBlue(リトルガールブルー)」を発表します。

このデビューアルバム「LittleGirlBlue(リトルガールブルー)」も人気を博し成功を収めた後、今度はコルピックスレコードと契約を結び、このレーベルから多数のスタジオアルバムとライブアルバムを録音しました。このコルピックスレコードでは、契約上、録音される素材の選択等を含め、すべての創造的な面でのコントロールをニーナに・シモンが任されることになっていた様です。

ニューヨークのタウンホールでのライブアルバム「ニーナ・シモン」がリリースされ好評を得た後は、ニーナ・シモンは当時のジャズ・シーンの中心地の一つ、ニューヨークのグリニッチビレッジ界隈のジャズファンの間では最も人気の有るアーティストの一人になっていました。

この様に音楽活動の方では順調にジャズ・アーティストとしての地位を確立していたニーナ・シモーンは、プライベートでは1961年12月にニューヨーク市警の刑事 アンドリュース・ストラウドと再婚します。そして長女リサを授かり、後に彼はニーナ・シモンのマネージャーになりますが、やがてこの夫はニーナ・シモンを精神的および肉体的に虐待する様になり、またしてもこの結婚も破綻することになります。 またこの頃は、音楽活動を展開する一方で、人種差別主義者によるアラバマ教会爆破事件やミシシッピでの公民権運動家殺害事件に抗議し、黒人公民権運動にも参加するなど、人種差別撤廃に向けて精力的に活動をしていました。

そしてアンドリュース・ストラウドと離婚後はアメリカを離れ、しばらくアフリカのリベリア共和国で音楽とは無縁の暮らしをしていましたが、その後はフランスの音楽フェスティバル出演でジャズ界に復帰し、続いてオランダを中心とした8公演を成功させ、完全復帰を果たします。

晩年は双極性障害・躁うつ病を患いながらも、2000年に入ってからはフランスに拠点を移し音楽活動を活発化させていましたが、乳癌を発症し、2003年4月21日、フランスの自宅で70年の生涯を終えました。

今回ご紹介するライブ録音アルバム『エマージェンシー・ワード(Emergency Ward) 』は、様々なライブ会場での演奏録音を音源として、1972年にRCA Victorから発表されたアルバムです。

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Emegency_Ward_(album)


 ニーナ・シモン


Nina Simone


エマージェンシー・ワード


Emergency Ward


   


このアルバムは1972年、二ーナ・シモンが39歳の時に発表したライブ録音アルバムです。ライブ会場は1カ所ではなく、いくつかの会場に分かれていますが、その一つは当時ベトナム戦争下でのアメリカ国内の米軍基地も含まれていて、曲目も反戦・和を願う意味合いの有る曲等も入っています。

このアルバムでは、大編成や小編成等のバンドや教会合唱団等の様々な形態のバックのサポートを得て、ニーナ・シモンダイナミックな歌声と、高い評価を受けて来た高度な技術のフレージングを駆使し、収録されたビートルズのナンバー等を見事に歌い上げています。

BarBarBar音楽院は、長年ジャズの街横浜で、現役一流ジャズ・アーティストの講師陣によるレッスンを提供して参りましたが、今当院でジャズ・ヴォーカルやジャズ・ギター、ジャズ・ピアノ、ジャズ・ベース、ジャズ・ドラム、ジャズ・サクソフォン、ジャズ・トロンボーン等のレッスンを受けてけている方、そしてこれから当院でこれらのレッスンを受けようと思っている方には、このアルバムはご参考用に是非お薦めしたいと思います。

<収録曲>

1.  Medley~My Sweet Lord--Today is a Killer.

2. Poppies

3. Isn't It a Pity?

4. Let It Be Me

 

 
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