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2023.04.19ブログ

今月お薦めの1枚: ジャズ・器楽編~ハンク・モブレー『ディッピン (Dippin’)』


今月お薦めの1枚~ジャズ・器楽編は、1950年代から1980年代後半まで、ジャズ・サクソフォン奏者として、アメリカ・ジャズ界の第一線で活躍し、40枚近くのリーダー・アルバムや、100枚以上もの共演アルバムを発表し、ジャズ・トラペット奏者マイルス・ディビス、ドナルド・バード、リー・モーガンジャズ・ベース奏者 ポール・チェンバース、ジャラ・ドラマ フィリー・ジョー・ジョーンズ、アート・ブレイキー、ビリー・ヒギンズ等、数多くのジャズ界のトップ・アーティストと共演してきたハンク‣モブレーが、1966年36歳の時に、当時隆盛を誇っていたレコード・レーベルのブルーノートから27枚目のリーダー・アルバムとして発表し、ジャズ界で高い評価を得た「ディッピン (Dippin')」を選び、ご紹介したいと思います。 





ハンク・モブレーは、1930年7月7日にジョージア州イーストマンで生まれ、その後は家族とともに移住したニュージャージー州エリザベスで育ちましたた。 アーティストになってからのインタビュー等で、ハンク・モブレーは自分自身は音楽一家の出身であると言及しており、実際に叔父がジャズバンドで演奏していていたりする中、ハンク・モブレーも幼少の頃から自然とピアノを弾くことを始めたりして、音楽に親しんでいた様です。





そして16 歳のときに病気で自宅療養を余儀なくされましたが、祖母はハンク・モブレーがその間に時間を有意義に過ごせる様に、テナー・サクソフォンを買い与え、このことがテナー・サクソフォン奏者ハンク・モブレーの原点になった様です。





その後は、ますますサクソフォンの演奏や音楽全体に没頭する様になったハンク・モブレーは、地元に近いニューアークに有る音楽学校に入学しようとしましたが、ニューアークの居住者ではなかったため入学できず、代わりに自宅でいろいろな教則本等を通じてサクソフォン演奏や音楽理論を独習していた様です。





そして19 歳になると、ハンク・モブレーは地元のバンドで演奏を始めて直ぐに頭角を現し、数か月後には早くも、当時ジャズ・トランペット奏者ディジー・ガレスピーやジャズ・ドラマーマックス・ローチなどの当時のジャズ・シーンでトップ・クラスのアーティスト達と共演する様になります。     特にマックス・ローチはジャズ・サクソフォン奏者としてのハンク・モブレーの才能を高く評価し、1951年にニューヨークのジャズ・シーンで活動していたアーティストや関係者にハンク・モブレーを紹介し、ハンク・モブレーの活動の領域は更に拡がることになります。また この時期に、サクソフォンの演奏だけでなく、作曲も開始します。演奏活動の方でも、当時最も高い人気を誇っていたデューク・エリントン・オーケストラのメンバーに招き入れられたります。またその頃ジャズ・シーンで絶大な人気を誇ったジャズ・サクソフォン奏者のチャーリー・パーカーは、ハンク・モブレーの演奏を聞いて良い印象を持ち、ブルース音楽からもっと影響を受けると、ジャズ演奏の向上にも繋がるといった主旨のアドバイスをしていた様です。





1953 年 には、以前よりハンク・モブレーの才能を高く評価していたマックス・ロ ーチのバンドに雇われ、ハンク ブ・モブレーをフィーチャーしたマックス ローチ ・カルテットでのアルバムの録音に参加しました。 その後も1958 年までの間に、エマーシー・ レコードから発表された 2 つの マックス・ローチ・カルテットのアルバムにも立て続けに参加しまし、着実とジャズ界での地位を固めて行きました。





マックス・ローチと仕事をした直後、彼は別のドラマー兼バンドリーダーで、当時ジャズ界で影響力を増していアート・ブレイキーと定期的に仕事を始めました。 ハンク・モブレーとアート・ブレイキーは、ピアニストのホレス・シルバー、ベーシストのダグ・ワトキンス、トランペッターのケニー・ドーハムとともに、ハード・バップ黎明期に積極的に演奏を行いました。 これらの演奏活動の結果は、「Horace Silver and the Jazz Messengers」のアルバムとしてリリースされました。 この時期、このバンドへのかかわり方は様々だった様で、例えばライブ アルバム 「At the Cafe Bohemia 」のレコーディングのために 「The Jazz Messengers 」のメンバーとして参加し、Columbia Records のスタジオ アルバム「 The Jazz Messengers」 のレコーディングにも参加したりしていました。





ハンク・モブレーは 1950 年代後半には、ブルーノート ・レコードのために定期的にレコーディングを行い、リー ・モーガン、ドナルド ・バード、アート ・ファーマー、ケニー ・ドーハム、ジャッキー・マクリーン、ペッパー ・アダムス、ミルト・ ジャクソン、ソニー・・ クラーク、ボビー ・ティモンズ、 ハービー・ハンコック、ウィントン・ケリー、ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズなど、当時のジャズ界の一線級のアーティスト達と多くの共演アルバムを残しました。     これら多くのアルバム録音活動を行った後、1959 年 3 月に、ハンク・モブレーはアート・ブレイキー&ジャズ・ メッセンジャーズに復帰し、当時高い評価を得た「 At the Jazz Corner of the World 」と、後の2020 年に 「Just Coolin' 」としてリリースされたアルバム等のレコーディングに参加しました。 またこの同じ時期に、ジャズ・ メッセンジャーズの活動とは別に、ハンク・モブレー と アート・ブレイキー は、1979 年に ソニー・クラーク のレコーディング セッションに一緒に出演したりしていました。   ハンク・モブレーはその年の夏の、世界最大級のジャズ・フェスティバルで有った、ニューポート・ジャズ・フェスティバルでもジャズ・メッセンジャーズの一員として参加しましたが、その後はバンドを離れ、後任のサクソフォン奏者はウェイン・ショーターになりました。





1960 年代に入ってからは、主にリーダーとして働き、1970 年までブルー ノート レコードでレコーディングを続けましたが、これらのアルバムの中でもアート・ブレイキーをドラマーとしてっ迎えたものがいくつかありました。





この期間中、ハンク・モブレーはジャズ・ギター奏者グラント・グリーン、ジャズ・トランペット奏者フレディ・ハバード、ジャズ・ピアニストソニー・クラーク、ウィントン・ケリー、ジャズ・ドラマーフィリー・ジョー・ジョーンズなどのバップおよびハード・バップのジャンルの多くのアーティストと共演し、特にトランペッターのリー・モーガンとは強固なパートナーシップを結び、お互いのアルバムに出演したりし、当時のジャズ界では高い人気を得ていた様です。





その後ハンク・モブレーは、ジョン・コルトレーンの代役探しをしていたマイルス・ディビスとも共演し、デイヴィスの代表的アルバムの一つ『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』にも参加しています。





この様にジャズ・テナーサクソフォン奏者として幅広く活動し、絶えず独創的な演奏を行うアーティストとして高い評価を得ていたハンク・モブレーですが、1970年台後半からは肺の障害のため引退を余儀なくされました。 そして1986年にジャズ・ピアニスト デュ―ク・ジョーダンと共演したことが最後の演奏になり、同年5月にペンシルベニア州フィラデルフィアで、肺炎のために55年の生涯を閉じました。





今回ご紹介する『ディッピン (Dippin')』は、1965年35歳の時に発表したハンク・モブレーにとっては26枚目のアルバムでの、ブルーノート・レコードから発表され、発売後は高評価を得て、半世紀以上経った今も名盤として高い人気を維持しています。













ハンク・モブレー





Hank Mobley





ディッピン





Dippin





このアルバムは、当時所属していたブルーノート・レコードから26枚目のリーダー・アルバムとして発表したスタジオ録音アルバムです。               





当時、強固なパートナーシップを築き多くの共演をしていた、ジャズ・トランペット奏者のリー・モーガンとの2管編成で、バックはハロルド・メイバーンやビリー・ヒギンズ等によるピアノ・トリオ。     この実力派アーティストによる編成の下、ハンク・モブレーはリーダーとして、当時高く評価されていとぁ独創的なコード進行に従った素晴らしい即興演奏を繰り広げています。









1.The Dip





2.Recard Bossa





3.The Break Through





4.The Vamp





5.I See Your Face Before Me





6.Ballin'










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