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2023.06.16ブログ~今月お薦めの1枚ジャズ器楽編

今月お薦めの1枚: ジャズ・器楽編~ポール・ブレイ『トプシー(Topsy)』


今月お薦めの1枚~ジャズ・器楽編は、1950年代から2000年代初頭まで半世紀以上に渡り、ジャズ・ピアニストとしてジャズ界の第一線で活躍し、90枚近くのリーダー・アルバムを発表し、ジャズ・トラペット奏者チェット・ベイカー、ドン・チェリー、ジャズ・サクソフォン奏者ソニー・ロリンズ、コールマン・ホーキンス、ジャズ・ベース奏者 チャーリー・ミンガス、ゲーリー・ピーコック、スティーブ・スワロー、ジャラ・ドラマー アート・ブレイキー・ポール・モチアン等、数多くのジャズ界のトップ・アーティストと共演してきたポール・ブレイが、1954年若干22歳の時に、当時の人気ジャズ・レーベルの一つでマーキュリー・レーベルから2枚目のリーダー・アルバムとして発表し、ジャズ界で高い評価を得た「トプシー(Topsy)」を選び、ご紹介したいと思います。 





ポール・ブレイは、1932 年 11 月 10 日にカナダ ケベック州モントリオールで生まれました。親族間の諸事情で、養父母でルーマニアからの移民であるベティ・マルコビッチと刺繍工場のオーナーであるジョセフ・ブレイの下で育てられ、最初はハイマン・ブレイと名付けられました。養父母はどちらも音楽教育に熱心だった様で、ポール・ブレイは5歳でヴァイオリンを習い始めましたが、7歳の時に養父母が離婚したのを機に、ピアノに転向することを決めました。幼少期より音楽的才能を発揮していたポール・ブレイは 11歳までに、地元モントリオールのマギル音楽院からジュニア・ディプロマを受け取るほどでした。 13歳のときにはバンドを結成し、カナダ国内の避暑地等で既に演奏活動をしていました。 この頃に自分の名前を、より覚えてもらいたい様な気持ちが有ったのか、「ハイマン」から「ポール」に変え また、その後は地元ミュージシャンの率いるバンドにも加入して、アメリカへのツアーに参加したりして、年々演奏活動を積極的に行う様になります。





1949年にポール・ブレイが高校 3 年生になった時に、同じモントリオール出身で、既に著名ジャズ・ピアニストとしての地位を確立していたオスカー ・ピーターソンはポール・ブレイの才能に着目し、モントリオールの著名ジャズ・クラブ等で演奏することを薦めていました。 そして1950年には入ると、ポール・ブレイはモントリオールを離れ、更なるキャリアアップを目指して、ニューヨークに移住し、同地のジュリアード音楽院に入学します。因みにポール・ブレイはその後ずっと米国に住んでいましたが、カナダ国籍を放棄することはありませんでした。





ジュリアード音楽院入学後も、夏休み等にはポール・ブレイはモントリオールに戻り、地元で開催されるジャズ ワークショップを手伝いをしていましたが、 1953年に、ポール・ブレイはチャーリー・パーカーをそのジャズ・ワークショップに招待し、そこで一緒に演奏し録音し、レコード「チャーリー・パーカー・モントリオール1953」を発表するという機会に恵まれました。この様な著名アーティストとの共演を機会に、ポール・ブレイのジャズ界での人脈は更に培われた様で、ニューヨークでは、当時新進気鋭のジャズ・アルトサクソフォン奏者ジャッキー・マクリーンや、ジャズ・ベース奏者ダグ・ワトキンスと共に、ニューヨークのロングアイランド地区に有った、ジャズ・クラブ コパ・シティに長期間出演しました。 1950年代初頭から1960年にかけて、ポール・ブレイはドラマーのアル・レビットやベース奏者のピーター・インドとトリオを組んで演奏活動をしていましたが、このトリオは当時のニューヨークのジャズ界では注目される存在になり、当時既にジャズ・サクソフォンの大御所的存在になっていたレスター・ヤングや、ベン・ウェブスターとも共演したりしていました。 さらに1953年には、ジャズ・ベース奏者で、若手アーティストの発掘、育成には定評の有ったチャールズ・ミンガスは、自身とポール・ブレイとドラマーのアート・ブレイキーでトリオを組み、自身が立ち上げたレーベルであるデビュー・レコードのためにアルバム『イントロダクション・ポール・ブレイ』をプロデュースし、発表しました。





1また1954年には、ポール・ブレイはジャズ・トランペット奏者のチェット・ベイカーから直接電話を受け、3月にカリフォルニア州ハリウッドのジャズ・シティで行われたライブ・コンサートにピアニストとして参加する様にれに請われた他、ジャズ・ボーカリスト ダコタ・ステイトンのツアーにも参加し、これら著名アーティストとの共演を通じ、更に新進ジャズ・ピアニストしての名声と地位を確立していきます。





アメリカで最大発行数を誇るジャズ専門誌『ダウン・ビート・マガジン』は、1955年にポール・ブレイにインタビューし、この中でポール・ブレイは「今後もっと長い形式の曲を書きたい、和音中心ではない音楽を書きたい」と述べ、このインタビューをもとに作成された記事は「ポール・ブレイ、ジャズはもうすぐ次の革命の準備ができている」と言うタイトルで同誌内で発表され、ジャズ界で話題を呼びました。





その後の1956年、 ニューヨークの著名ジャズ・クラブ バードランドで働いていたカーラ・ボーグと言う女性と出会ったブレイは、ロサンゼルスで演奏活動をしていた時に彼女が会いに来てくれた後に結婚し、結婚後はカーラ・ブレイと名乗る様になり、ポールと共に音楽活動を幅広く行う様になります。





この頃、ポール・ブレイは、ジャズ・トランペット奏者のドン・チェリー、ジャズ・アルト・サクソフォン奏者のオーネット・コールマン、ジャズ・ベーシストのチャーリー・ヘイデン、ジャズ・ドラマーのビリー・ヒギンズ等のチェレンジ欲旺盛な若手アーティスト達と多くの機会を共演し、前提的なアプローチの演奏活動も行う様になっていました。





1960年代に入ると、ポール・ブレイはジャズ・サクソフォン奏者のジミー・ジュフリーとジャズ・ベース奏者のスティーブ・スワローとのトリオでの演奏が活動の中心になりましたが、そのレパートリーには、ジュフリー、ブレイ、そしてポール・ブレイと当時は婚姻関係に有ったカーラ・ブレイの作品が含まれていました。 そしてこのピアノ・トリオの音楽はフリー・ジャズ界に革新をもたらしていきます。1961年のこのトリオのヨーロッパ・ツアーは、当時のジャズ界の主流で有ったビバップスタイルの演奏を期待していた観客に衝撃を与えましたが、このツアーのライブの音源からリリースされた多くの録音はフリー・ジャズの古典として今も評価されています。 またポール・ブレイはこのグループでフリー・ジャズの演奏を行うだけでなく、同時期にジャズ界の主流アーティストの一人テナーサクソフォン奏者のソニー・ローリンズともツアーやレコーディングを行っており、アルバム『ソニー・ミーツ・ホーク!』等の後の名盤の録音にも参加しています。





1970 年代から80年代にかけては、ポール・ブレイと 2 番目の妻であるビデオ アーティストのキャロル ゴスは、ビデオ・サウンド制作会社 Improvising Artists を設立しました。 このレーベルは、20世紀で最もクリエイティブな即興演奏家達によるアコースティック録音を行っていた他、エレクトリックの音楽の方でも、エレクトリック・ギターのパット・メセニーとエレクトリック・ベースのジャコ・パストリアスもエレクトリック・ピアノのポール・ブレイの演奏活動の録音を行っていました。





1980年代後半には、ポール・ブレイは、ドキュメンタリー映画『イマジン・ザ・サウンド』に出演し、フリー・ジャズと彼の音楽の進化について演奏し、説明しました。 その後もポール・ブレイは、さまざまなフォーマットで複数のレーベルにレコーディングを精力的に開始しました。その中には、オウル・レコードのソロ・ピアノ・アルバム『ティアーズ』、ソウルノートの『タンゴ・パレス』、ジャスティン・タイム・レコードの『ポール・ブレイ・ソロ』、レッド・レコードの『ブルース・フォー・レッド』、スティープルチェイス・レコードの『ソロ・ピアノ』などがあります。





1990年代に入ってからも、ポール・ブレイはフリー・ジャズ、主流のジャズ両方で演奏活動を展開し、幅広い人気を更に得る様になり、ヨーロッパ、日本、南米、米国でツアーを続け、ソリストとして、また幅広いアンサンブルで多くのレコーディングを行った。 1993 年、母国カナダでの最大ジャズ・イベントのモントリオール国際ジャズ フェスティバルでは、4 晩にわたるポール ブレイ オマージュ コンサート シリーズが開かれたほどです。





一方で、ポール・ブレイはニューイングランド音楽院の非常勤教員にもなり、アメリカ国内だけでなく、日本や世界中からジャズを学びに来た多くの学生を熱心に指導し、これらの学生の多くはその後各々の国に戻り、著名アーティストになって行った様です。





2000年代に入ってからは、2008年にそれまでの世界的な音楽活動績が認められ、母国カナダから勲章が授けられました。その後も演奏活動やアルバム制作活動も引き続き精力的に行い、アメリカとヨーロッパ諸国でのソロ・ツアー行った他、いくつかのソロ・ピアノ録音アルバムをリリースしました。その後も様々な演奏活動を行っていましたが、 ニューヨークのジャズ・クラブ ブルーノートでジャズ・ベース奏者チャーリー・ヘイデンとのデュオが最後の演奏になり、2016年1月3日、フロリダ州スチュアートの自宅で83歳で亡くなりました。





今回ご紹介する「トプシー(Topsy)」は、1954年にポール・ブレイが若干22歳の時に、当時の人気ジャズ・レーベルの一つでマーキュリー・レーベルから2枚目のリーダー・アルバムとして発表し、ジャズ界で高い評価を得たアルバムで、発表から半世紀以上経った今もジャズ・ピアノの名盤の一つとして高い人気を維持しています。









ポール・ブレイ





Paul Bley





トプシ―





Topsy





このアルバムでは、ポール・ブレイは、ベースにパーシー・ヒース、ドラムにアル・ブレッドと言う名手を従え、「ザット・オールド・フィーリング」や「ゼア・ウイル・ネヴァー・ビー・アナザー・ユー」等のスタンダード曲を中心にした12曲を、美しいピアノの音色を響かせ、創造力溢れるコードの組み立てをしながら、縦横無尽の演奏を繰り広げています。













1.Topsy





2.My Heart





3.That Old Feeling





4.There Will Never Be Another You





5.Autumn Breeze





6.I Want Be Happy





7.My Old Flame





8,Time On My Hands





9,Drum One





10 .This Can't Be Love





11.My One and Only





12.52nd Street Theme






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